堆積する時間
GOTO作品の読み方
文・池谷 修一
写真は時の動きの一瞬をとどめることができるが、同時に時の堆積をも写し撮ることができる。「自然の移ろいと堆積」「撮り手の視点」。二つの関係は風景を写真で表現するすべてに関わってくるが、GOTO AKIの写真を鑑賞するうえでは、とくにわかりやすい前提のようなものになると思う。
人は風景を見て何がしかの情趣を覚えるものだ。眼の前に広がる風景にレンズを向ける。ある日、ある季節のまたとない自然の律動が撮り手の心を動かし、そこに美的な志向性を加味する。そして何が私を揺さぶったかを表明しようとするわけだが、GOTOの写真では、ここに突出した特徴がある。
GOTOが目を向ける自然風景を大まかに俯瞰すると、そこには山や樹木、土や石や岩肌があり、水がある。しかしそこがどこの森であり川や海であるかはよくわからない。固有性が乏しいのだ。GOTOの撮影フィールドはおもに日本だ。しかし、そこがどこなのかは重要ではない。人が名づけた何らかの美的な基準から判断した風景とは違うものをGOTOは見出そうとしているからだ。
風景写真は元来、長大な歴史を持つ風景絵画と不可分の関係にあって、そこに写真でしかなしえない新味を付け加えてきた。ただその価値を成立させる方向性は概ね絵画と同様だったといえる。人の目が感じとれるスケールとさほど違和感なく風景をとらえることをベースに、画としての充実を求めてきたからだ。それは、撮り手の眼の先にあるものが大風景であれ小風景であれ、人のまなざしにおっているからである。
以上の観点からGOTOの作品をあらためて眺めてみる。冒頭の作品(*関連写真は下に掲載)では、火山活動がつくりだしたカルデラの一部を切り取っている。視点は、斜面の上から下へと向かっていて、とても動的で、安定しているとは言いがたい。鑑賞者はGOTOの視線に自分のそれを重ね合わせるのにはためらいを覚えるかもしれない。さらにGOTOはスケール感を把握しにくい画を意図的につくっている。ここにある岩や石がいったいどのくらいの大きさなのかはつかみにくい。さらに長く見ていると、自分が周囲の風景に囲まれているかのように感じられてくるところも面白い。人のまなざしとして、これはありふれたものではない。ここには風景を写真で見ることを問う、ひっかかりのようなものがあるのだ。GOTOは「撮り手の視点」としてこのようなことを行っている。
続く見開きには、凍結した滝のような場所と鍾乳洞が写っている。いったいこれらはどこで撮影されたのか? GOTOの意図的なフレーミングによってふたつの風景から固有性が離れていく。ねらった風景の周辺から状況を説明する情報をできるだけ取り去ることも「撮り手の視点」なのだ。続く見開きで展開される4点の作品からも固有性から離れようとする考えがよく見て取れる。望遠効果と切り詰めたフレーミングによってそれぞれの風景は抽象性を増し、その風景がこれまでどのように見られてきたのか、という歴史からも遠ざかろうとする。
人が自然を風景として見てきた、そのまなざしの歴史。画家や写真家が連綿と見つめてきた風景とは異なる風景とすること。GOTOは「撮り手の視点」として、それを強調する。では、何に惹かれレンズを向けているのか。GOTOはしばしば「地球の表情を撮っている」と語る。日本の自然の一部であれ、たしかにそれは地球の一部である。そもそも国や地域という概念も人が考えたものであって、そこに広がる風景も人が考えた見立てとつながっている。人は、人が見立てたそんな風景を地球そのものの風景だとはそうはとらえないものだ。一方で、眼の前にヒマラヤの山々やグランドキャニオンが横たわっていたらどうだろうか? そこに人の知覚と見立てとの関係を意識するGOTOの視点があるのだ。
人が感じる時間よりも地球の時間を念頭に自然に向かう。自然の移ろいを地球規模でとらえれば24時間の一日とその積み上げである季節へのまなざしは変わる。眼前の風景に刻々と変化する移ろいと数十億年の堆積が交差する。そこにGOTOは魅入られるのだという。
人が見立ててきた画としての風景から離れ、地球を経由し、そして私のまなざしとして没入すること。これに類する風景写真はそうは見当たらないだろう。そもそも風景を見て写真にするとはどういうことなのか? GOTOはその根幹に触れる作品を撮っている。
人は風景を見て何がしかの情趣を覚えるものだ。眼の前に広がる風景にレンズを向ける。ある日、ある季節のまたとない自然の律動が撮り手の心を動かし、そこに美的な志向性を加味する。そして何が私を揺さぶったかを表明しようとするわけだが、GOTOの写真では、ここに突出した特徴がある。
GOTOが目を向ける自然風景を大まかに俯瞰すると、そこには山や樹木、土や石や岩肌があり、水がある。しかしそこがどこの森であり川や海であるかはよくわからない。固有性が乏しいのだ。GOTOの撮影フィールドはおもに日本だ。しかし、そこがどこなのかは重要ではない。人が名づけた何らかの美的な基準から判断した風景とは違うものをGOTOは見出そうとしているからだ。
風景写真は元来、長大な歴史を持つ風景絵画と不可分の関係にあって、そこに写真でしかなしえない新味を付け加えてきた。ただその価値を成立させる方向性は概ね絵画と同様だったといえる。人の目が感じとれるスケールとさほど違和感なく風景をとらえることをベースに、画としての充実を求めてきたからだ。それは、撮り手の眼の先にあるものが大風景であれ小風景であれ、人のまなざしにおっているからである。
以上の観点からGOTOの作品をあらためて眺めてみる。冒頭の作品(*関連写真は下に掲載)では、火山活動がつくりだしたカルデラの一部を切り取っている。視点は、斜面の上から下へと向かっていて、とても動的で、安定しているとは言いがたい。鑑賞者はGOTOの視線に自分のそれを重ね合わせるのにはためらいを覚えるかもしれない。さらにGOTOはスケール感を把握しにくい画を意図的につくっている。ここにある岩や石がいったいどのくらいの大きさなのかはつかみにくい。さらに長く見ていると、自分が周囲の風景に囲まれているかのように感じられてくるところも面白い。人のまなざしとして、これはありふれたものではない。ここには風景を写真で見ることを問う、ひっかかりのようなものがあるのだ。GOTOは「撮り手の視点」としてこのようなことを行っている。
続く見開きには、凍結した滝のような場所と鍾乳洞が写っている。いったいこれらはどこで撮影されたのか? GOTOの意図的なフレーミングによってふたつの風景から固有性が離れていく。ねらった風景の周辺から状況を説明する情報をできるだけ取り去ることも「撮り手の視点」なのだ。続く見開きで展開される4点の作品からも固有性から離れようとする考えがよく見て取れる。望遠効果と切り詰めたフレーミングによってそれぞれの風景は抽象性を増し、その風景がこれまでどのように見られてきたのか、という歴史からも遠ざかろうとする。
人が自然を風景として見てきた、そのまなざしの歴史。画家や写真家が連綿と見つめてきた風景とは異なる風景とすること。GOTOは「撮り手の視点」として、それを強調する。では、何に惹かれレンズを向けているのか。GOTOはしばしば「地球の表情を撮っている」と語る。日本の自然の一部であれ、たしかにそれは地球の一部である。そもそも国や地域という概念も人が考えたものであって、そこに広がる風景も人が考えた見立てとつながっている。人は、人が見立てたそんな風景を地球そのものの風景だとはそうはとらえないものだ。一方で、眼の前にヒマラヤの山々やグランドキャニオンが横たわっていたらどうだろうか? そこに人の知覚と見立てとの関係を意識するGOTOの視点があるのだ。
人が感じる時間よりも地球の時間を念頭に自然に向かう。自然の移ろいを地球規模でとらえれば24時間の一日とその積み上げである季節へのまなざしは変わる。眼前の風景に刻々と変化する移ろいと数十億年の堆積が交差する。そこにGOTOは魅入られるのだという。
人が見立ててきた画としての風景から離れ、地球を経由し、そして私のまなざしとして没入すること。これに類する風景写真はそうは見当たらないだろう。そもそも風景を見て写真にするとはどういうことなのか? GOTOはその根幹に触れる作品を撮っている。
隔月刊「風景写真」2018年秋冬号より転載